「神風」とは「神の力によって吹く強風」とされているが、自然界で人の行動に都合良く強風が吹くことはあり得ず、元々は日本特有の宗教用語であり一つの心の拠り所と考えるのが妥当であろう。「神風」の読み方も音読み・訓読みと分野により変わっている。古くは、モンゴル帝国(元朝)の元軍と高麗の軍勢が二度(「文永の役」と「弘安の役」)にわたり九州北部を侵略して、その戦で神風(強風)が吹き日本勢が勝利したとされ、この戦いを元寇(蒙古来襲)と称している。元寇は突然ではなく、元寇の 6 年前(文永 5 年)から国交を求める打診が何回かあったが、日本が無視していたことで侵攻に至っている。最初の元寇「文永の役」は、文永 11 年 10 月に対馬などの地域を占領し、九州北部に到達して日本勢と戦った。元軍は 10 月 20 日に博多湾沿岸に上陸したが、何故か翌 21 日夜明け前に艦船に戻って引き上げ、帰還途中の壱岐で強風に遭遇し大被害を受けたものの合浦に帰還した。その後、日本勢は再度の侵攻に備え、博多湾沿岸に防備の防塁約六里を築く等戦いに備えた。弘安の役は、文永の役から 7 年後の弘安 4 年 6 月 6 日に始まった。6 月 6 日東路軍が博多湾に到達したが防備が固く志賀島に上陸した。一方、江南軍は 6 月 25 日頃に平⼾付近に到達した。しかし、東路軍、江南軍とも日本勢の抵抗にあい、鷹島付近で集結した。再編上陸準備中の 7 月 30 日から閏 7 月 1 日にかけて暴風で壊滅的被害を受け、戦闘を放棄し残った艦船で帰還した。二つの役での両軍の武力は刀、弓矢そして軍馬とほぼ互角だったが、元軍は火薬を用いた「てつはう」(写真 2)を使用した。てつはうは手榴弾の原型に近い投擲弾と思われる。一方、日本に火薬製造方法が伝来したのは弘安の役から 162 年後の天文 12 年の鉄砲伝来と同時期と云われている。
当時、強風を野分(のわき)、大風(おおかぜ・たいふう)、嵐と表現していた。神風説は、明治初期に史学者の史実誤解や創作の結果とする考え方が多く、戦後、史学者の「文永の役」での勝敗は台風との考えに対し気象学者 荒川秀俊(1907〜1984)は「日本歴史 120 号」(1958 年 6 月)に「文永の役のおわりをつげたのは台風ではない」との論文を掲載し、その後しばらく史学者と気象学者の間で論戦が続いたが、概ね決着している。いずれの役でも日本勢が勝利したのは戦闘結果説との考え方が強い。今日もこの史実に多くの研究グループが挑み、元軍の沈没船の発掘等から当時としては高度な造船技術が使用されていることを実証している。また、季節の理解を深めるには暦を⻄暦(グレゴリオ暦)に変換する必要があり、文永 11 年 10 月 20 日は⻄暦 1274 年 11 月 26 日であり、文永の役の強風は季節的に考えて低気圧または季節風と考えられる。同様に弘安 4 年 7 月 30 日〜閏 7 月 1 日は⻄暦 1281 年 8 月 22〜23 日であり、となれば強風原因は台風と推測される。台風という名前は、気象学者 岡田武松(1874〜1956)が 1907 年に定義づけしたが、一般に普及したのは大正時代(1912〜1926)になってからと云う。文字も当初は「颱風」だったが、昭和 21(1946)年の当用漢字の制定で「台風」に変わった。元寇の詳細は数多くの資料や報告があり、それらを参照されたい。
Mest 渡邉好弘