昭和 20(1945)年8月 14 日ポツダム宣言を受諾、翌 15 日玉音放送、そして 9 月 2 日東京湾内のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で戦争終結の調印が行われ、太平洋戦争が終結した。戦前、国⺠の財産生命に関わる気象業務は国の専管事項で中央気象台の所管であったが、敗戦により全てが GHQ の管理下となり、GHQ 司令部から気象台の縮小並びに人員整理等が命令され、業務の一部が履行出来なくなり、気象台の外郭団体(財)気象協会を昭和 25(1950)年に設立して業務を移管した。また、中央気象台も昭和 31(1956)年に気象庁に昇格した。GHQ の占領政策は、昭和 27(1952)年4月迄続いた。
戦後とは云えども気象業務は休むことなく、気象学や電子技術の発達で、人手による気象観測は、順次電子技術を採用して自動化が進み今日に至っている。戦後、日本の台風観測体制は脆弱で米空軍気象隊から情報を得ていた。米空軍は終戦直後から余った爆撃機を改造した飛行機(WB-29 等)を使用し、気象観測や大気放射能測定等を行い、台風観測はその一環に過ぎなかった。飛行機は台風の目に突入し、ドロップゾンデ等を使用して台風観測を行っていた。その後 WB-29 の老朽化に伴い爆撃機や輸送機を改造した WB-50D(写真 1 参照)、WC-130 等を使用した。1960 年頃、米空軍から日本に台風観測の引継ぎの打診があったが態勢と経済的理由で実現しなかった。この米空軍の台風観測は昭和 62(1987)年 8 月中止となった。
一方、日本は独自に観測計画を立案し、昭和39(1964)年に富士山測候所に気象レーダーを設置して運用した。昭和 52(1977)年 7 月 14 日気象衛星「ひまわり」を打ち上げて翌年 4 月に運用開始、今日も気象衛星は更新しつつ継続している。富士山レーダーは、「ひまわり」や他のレーダーサイトの誕生で、平成 11(1999)年 11 月 1 日に観測を終了した。また、富士山測候所は平成 16(2004)年に無人化され富士山地域特別観測所となった。不用となったレーダーは平成 13(2001)年富士吉田市に移設され、市立富士山レーダードーム館で公開されている。
Mest 渡邉好弘