古くから人類が生活を営む上で、大気中の変化は時には甚大な被害をこうむり、技術が乏しい時代であったにしても、空模様から天候を予測する技術を経験的に身につけてきた。これらは日本ばかりでなく、世界各地で社会活動に利用されてきた。特に、日本は南北に長い島国であり、大陸のように気候も安定したものでなく、四季もはっきりし日々の気象変化は細やかであるものの時には激しい。故に、国内には気象に関わる言い伝えや諺が多く、その地域性も少なくない。中国4000年の歴史の真実は定かでないが、中国の影響を少なからず受けている日本に、飛鳥時代に朝鮮を経て伝わった暦に関する技術の中に、天体運行、地図や暦そして生活暦(農事含む)があり、予測(今の予報?)や占を行っていたと云う。伝来以降、例年暦の編暦作業は、朝廷の陰陽寮が行っていたが、1684(貞享元)年に、幕府は神社奉行の中に「天文方(テンブンカタと言う役職)」を設置し、陰陽寮から移管されて編暦作業を行い、これらの情報は暦等で公開されて社会活動に供されていた。当時の幕府内は今日のような気象業務を司る独立した組織がなかったが、唯一天文方は組織的な気象業務と云えよう。また、穀物相場が天候に依存することからところから、社会秩序を乱すデマや根拠ない予測等を天文方が取り締まっていたようだ。変遷はあったものの天文方の業務は明治初頭まで続き、その間に天文台なども創設している。今日の神社が発行している暦等は編暦作業の名残かも知れない。詳しくは天文学関係を参照されたい。

 鎖国時代、唯一オランダは幕府とキリスト教布教活動をしないと約束し、中国と共に長崎港の出島で交易を行うことが許された。さらに、対馬は朝鮮と、薩摩は琉球(当時は独立国)そして松前はアイヌとそれぞれ交易をしていた。これらの交易を通じて諸外国の文化や技術が日本に渡来したことは周知のことである。鎖国から開国へと時代が変わりつつある中、イギリス、オランダ、ポルトガル、イタリア、ロシア、アメリカ等の諸外国が日本に開国を迫り、来日の表向きは交易であるが植民地の開拓であったのではと思う。

 1835(天保6)年、晴雨計と寒暖計がオランダ政府から幕府に贈られ、この二器を江戸天文台内(1690年本所に築く)に据え付け、18358月より毎日1回定時観測をしていた。天文方を知れば、贈られた気象測器が江戸天文台に設置したことは理解出来よう。この他、長崎港出島、那覇港、函館、神奈川、横浜港、新潟港、大阪等でも以前から外国人よって観測が行われている。この観測に日本人が直接関与したかは定かでない。この中には出島でオランダ人達が観測した結果(18451885)はオランダ王立気象研究所に、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold:ドイツ語)らによって観測した結果(18191828)はドイツのボッフムのルール大学に収蔵されているとの報告(地理学評論 75-14,P901-912)がある。江戸時代末期の気象観測は、いずれの観測場所も海岸付近に設置されていることから、交易に伴う航海に供することが主目的であろう。近年、埋もれている観測記録が多くの研究者より発掘されつつある。しかし、これら観測に使用した観測機器を示す資料は決めて少ないが、観測機器の殆どは、15世紀以降西欧で気象学が発達に伴って観測機器も発明され、その恩恵を受けて不完全ながらも観測機器を利用した気象観測へと、緩やかに変貌したものと思われる。

 次回は観測について紹介の予定。

Mest 渡邉好弘